■駅から歩いて初詣 JR飯田線(愛知県内)
鎮魂の慰霊詣
緊急特別企画と銘打って始めた「駅から歩いて初詣」。名鉄線は完結し、さて次はJR飯田線と意気込んでみたものの、こちらは「駅から徒歩で」は無理なところばかり。そこで強引に「鎮魂の慰霊詣」を企画してみました。いずれも「大願成就」を願ったものの叶わなかった悲運の“もののふ”たちです。
【牛久保駅】

◎今川義元の墓(大聖寺境内) 歩いて7分
家臣が運んだ首なき遺体
今川義元は悲運の武将です。遠征先の尾張で油断したばかりに15歳も年下、27歳の若造(織田信長)に討たれ、死して後は「太原雪斎あっての義元だったな」と陰口を叩かれ、いまでも地元の駿河にあっては静岡市が「家康が愛した街」と義元にはそっぽを向いています。
だからこそ、みなさんには義元のお墓に詣でて欲しいと思います。
一説によると、検分用に織田方によって首を持ち去られた後、家臣たちは「これだけは渡すものか」と胴を持ち帰り、やっとやどりついた今川勢の、最後の勢力地だった牛久保に葬ったそうです。
かわいそうに墓石がなかったので代わりに遺骸を埋めた土の上に、大聖寺の手水鉢を置いたそうです。

◎山本勘助の墓(長谷寺=ちょうこうくじ) 歩いて9分
浪人たちが託した「男の夢」
山本勘助は謎に満ちています。牛久保との関わりは少年時代、当時牛久保を治めていた牧野氏の家臣に見出され、養子となった縁からだそうです。
20代で武者修行を思い立って出奔、30代半ばで牛久保に帰った後、養父に実子ができていたことから再び武者修行に出ます。
修行のかいあって40代半ばで信玄に見出され、以降は軍師として仕え、武田氏の勢力拡大を支えます。
う~ん、ほんとうに実在したのだろうか。たとえ有能であっても素性も知れず、まして実戦での功績をない中年の浪人が、武田家の軍師になることなどできるのだろうか。
その一方で、こうも考えます。彼が物語の中に姿を現すのが江戸時代初期、幕藩体制は少しずつ安定期に向かい、すでに身分の固定が始まっていました。
風来坊の中年が天下取りに参画する。それがもはやかなわぬ時代になったからこそ、裸一貫での立身出世を夢みる男たちによって勘助が見出されたのではないだろうかと。
勘助が実在しなかったにしても、「勘助になれなかった男たち」の夢に手を合わせることは悪いことでない、そう思いたいですね。
【三河一宮駅】

◎砥鹿神社の参道西側鳥居 歩いて6分
米軍機の掃射跡がくっきりと
砥鹿神社は三河地方の一宮、今回はこの神社が気骨のある神社であることを知っていただきたいと思います。
「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年代初頭、砥鹿神社は大きな決断を下しました。
約6キロ西に設置してあった遥拝所の大鳥居を砥鹿神社の参道入口に移設すること決めたのです。
この大鳥居は、同神社のご神体でもあり、奥社が置かれている本宮山を示すための鳥居でした。
単なる移設計画ではありません。この鳥居は昭和20年8月の豊川海軍工廠空襲において機銃掃射を受けた鳥居なのです。
当時鳥居は道路を隔てて工廠のすぐ南西にあり、ちょうど南西方向から来た編隊機群の進路にあたっていました。なぜ爆撃機を護衛するP21戦闘機(ムスタング)がこの鳥居に掃射を浴びせたのかはわかっていません。
戦後、「誤射だ」「あえて狙ったのだ」という喧噪がやまなかったなか、神社側は空襲の生きた証人であるとして移設を行いました。
この鳥居は天保年間に現岡崎市の篤志家により寄付されたもので、花崗岩でできており、豊川市内では2番目の大きさ、2013年には市の有形文化財に指定されています。
【新城駅】

大善寺(だいぜんじ) 歩いて5分
時代の悲しみに耐えた亀姫
亀姫を通じて見えてくるのは、戦国時代の非情とも言える姿です。
亀姫が奥平信昌に嫁いだのは織田・徳川連合軍が武田勝頼を敗走させた1575年の翌年7月。当時彼女は17歳、織田信長の強い要請でした。
信長は彼に忠誠を誓う家康に対して「亀姫を信昌に嫁がせろ」と命じます。
それまで武田と徳川(当時は松平)の間で揺れていた奥平を徳川側=織田側に引き入れるためでした。
勝頼は怒ります。敗走から間もなくの離反。家臣のために面目を保つ必要に迫られた勝頼は人質として預かっていた信昌の妻を処刑します。
1576年に結婚した2人はすぐに完成間もない新城城に移ります。
新城に落ち着いた直後、亀姫は徳川家の信仰が厚い浄土宗寺院の建立を願い、信昌はそれを聞き届けます。こうして新城に居を構えた翌年、現在の地に立派な伽藍を備えた大善寺が建てられます。
しかし、彼女が最初に菩提を弔ったのは生母の築山殿でした。築山殿は武田家への密通を疑われ、長男の信康ともども自害させられたのです。
訴えたのは信康の正室で信長の長女だった徳姫でした。
亀姫は織田、武田、奥平に翻弄された一生でした。それでも後世は夫や息子に付き従い、懸命に生き抜いた立派な人でした。
【長篠城駅】

医王寺(武田勝頼の本陣) 歩いて20分
勝頼のあせりに同情
医王寺には、長篠・設楽が原の戦いにちなんで、こんな伝説が残されています。「明日こそ、決戦だ」といきり立つ武田勝頼の夢枕に不思議な老人が立ち「おやめなさい」と進言します。しかし勝頼は聞く耳を持たず即座に彼の片腕を切り落とします。
翌朝、寺の池をみると、すべてのアシが「片葉(かたば)のアシ」(不吉の象徴)となっていました。
この伝承のポイントは彼は独断専行の野心家で他人の忠告には耳を貸さないのいう人柄を伝えることです。
確かに史実によると、陪臣らが彼我の兵力差(武田勢15,000、織田・徳川勢38,000人)を考えて撤退すべきだと進言しますが、勝頼は決戦に固執します。
ですが冷静に考えてみると勝頼の気持ちはよく分かります。
父の信玄が2年前に急死して以来、勝頼はことごとく父親と比べられる日々を送っており、
①大きな成果を上げる必要があった
②毎年のように各地への派兵を続けており、徴兵、増税によって民衆の不満が高まっていた
③一方、織田は伊勢国を領地化し、家康も浜松城を拠点に遠州方面への支配力を増していることなどで、将来はさらに戦力差の拡大が危惧されていた。
こうしたことから「最終決戦」に踏み切った気持ちはよくわかります。
もし自分が勝頼だったらと考えてみると…、やっぱり突っ込んでいくしかないのかなあ。
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◆2026年の情報であり、変更される場合があります。



