
■豊川稲荷
「東の横綱に押し上げた民衆パワーと大岡越前の人柄」
豊川稲荷は全国屈指の参拝客を誇ります。2024年、25年の正月三が日の初詣客は計340万人(平均170万人)。俗に言う「お稲荷さん」のなかでは東日本トップ、まさに西の横綱の伏見稲荷(京都市)に対して東の横綱といったところです。
しかし、意外に知られていないのが、豊川稲荷を支える「民衆パワー」です。たとえば「お稲荷さん」のほかに初詣客の多い神社を分類してみると伊勢神宮、明治神宮、熱田神宮などは皇室の祖先をお祀りすることで崇敬されています。
また、成田山新勝寺(千葉県)と川崎大師(神奈川県)はともに真言宗智山派に属しており、弘法大師の名声と江戸期に徳川将軍家から厚い信仰を受けたことが参拝者を吸引する土台になっています。
さらに共通するのはすべてが大都市またはその近郊に立地していることです。
その点、豊川稲荷は皇室や将軍家との関係は薄いですし、周囲に大都市はありません。では、なぜこれほどの「吸引力」があるのでしょうか。
豊川市史をひもとくとそれが判ります。同書によると開山は15世紀ですが江戸時代の中期までは、東海道名所図会にも掲載されない、地方の「お稲荷さん」に過ぎませんでした。
それが江戸期後半の19世紀になると一気に爆発します。飲食店やみやげもの屋だけでなく旅籠の開設も相次ぎました。
19世紀初頭に火災によって関連施設が全焼すると、北は南信州から南は渥美半島の先端まで多くの庶民が、各村を通じて復興寄付に応じました。
民衆パワーはもう一つの面からも浮かび上がります。核となったのは「大岡裁き」で有名な大岡忠相(ただすけ)です。
彼は江戸町奉行として公正を旨とする「大岡裁き」で活躍したほか、江戸に常備火消しの創設や賭博取り締まりの強化、小石川療養所の設置など市民生活の安寧を目指した数々の施策を行い。1748年には江戸時代を通じて唯一の町奉行から大名への出世を成し遂げました。
そして彼が藩主を務めたのは岡崎西大平藩(岡崎市)で、彼は同藩が豊川村を所領していた縁もあって豊川稲荷を深く敬愛し、同稲荷を彼が居住する江戸の下屋敷に勧請しました。
彼の偉大さはそれだけではありません。大岡の人柄と史上稀な出世への憧れが相まって稲荷人気にも火が付くと、屋敷の門戸を庶民に開放し、誰でも参拝できるようにしたのです。
ひるがえって豊川稲荷が歴史的に果たした役割は、市民社会における信心の確立です。「自分自身が自分自身の幸福のためだけに祈ってよいのだ」という発想は市民社会そのものの発想です。
商売繁盛をはじめとする徹底した現世御利益を求める意識は、封建的な主従関係を打ち破るきっかけにもなりました。
豊川稲荷が歴史的に果たした役割は、偉大とまではいえないにしても、決して小さくはないと考えますがどうでしょうか。

■豊川稲荷一覧
■基本情報
◆〒442-8538
愛知県豊川市豊川町1番地
◆駐車場あり(600円/日)
◆トイレあり
◆JR飯田線 豊川駅、名鉄 豊川稲荷駅から、徒歩で約5分
◆外部サイト
https://www.toyokawainari.jp/
◆お問合せ先
曹洞宗 円福山 豊川閣 妙厳寺
(豊川稲荷)
[TEL 0533-85-2030]
◆2024年の情報であり、変更される場合があります。